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薔薇をつけた少女
Jeune Femme à la Rose

ピエール=オーギュスト・ルノワール
Pierre-Auguste Renoir

作品名

薔薇をつけた少女
Jeune Femme à la Rose

作家名

ピエール=オーギュスト・ルノワール
Pierre-Auguste Renoir

生没年

1841‐1919

制作年

1915

技法・材質

油彩・キャンヴァス

寸法

32×31

解説

幼少期からパリに住み、画家を志したルノワールは、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)で、モネやシスレーらと交流。印象派の画家として屋内外の光が人物に当たる効果を追究し、人物群像を中心とした傑作を生み出す。一時期、色調を抑え、古典的で堅固な画面に転じたが、やがて、豊饒な色彩と柔和な形態が渾然とした画風を確立する。
 晩年、南仏カーニュにアトリエを構えたルノワールは、そこで浴女や子どもの小品を多く描いている。50代後半からリュウマチを患っていたルノワールにとって、温暖なカーニュは最適な環境であった。本作はこの時代の1点で、人物の背景を簡略化し、色彩の対比によって少女を象徴的に浮かび上がらせている。この絵に描かれた少女アンドレ(愛称デデ)は、モデルも務めながら家政婦として一緒に暮らしていたガブリエルが去った後のアトリエに、華やぎをもたらした。後にルノワールの次男ジャン(映画監督)と結婚し、女優としても活躍した。
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ノートルダム 曇天
Notre-Dame, temps gris

アルベール・マルケ
Albert Marquet

作品名

ノートルダム 曇天
Notre-Dame, temps gris

作家名

アルベール・マルケ
Albert Marquet

生没年

1875‐1947

制作年

1924年

技法・材質

油彩・キャンヴァス

寸法

65×81

解説

マルケは、フランスのボルドーに生まれ、1890年よりパリに住む。パリの国立装飾美術学校に入学し、そこでマティスと出会い、1894年にマティスとともにエコール・デ・ボザール(国立美術学校)に移り、ギュスターヴ・モローに師事する。1905年、サロン・ドートンヌに、鮮やかな原色が際立つ作品をドランやカモワンらと出品し、その展示を、ある批評家が「フォーヴ(野獣)」という言葉を用いて批評したことから、フォーヴィスムの名が付く。1907年頃までフォーヴ的な作品を描くが、やがて灰色を基調とした淡く渋い色調に転換する。
マルケは、セーヌ川の水辺を確実な筆遣いで情緒豊かに描き出し、季節や天候で変化を見せるノートルダム大聖堂の風景を、アトリエから好んで描いている。
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読書
La Lecture

マリー・ローランサン
Marie Laurencin

作品名

読書
La Lecture

作家名

マリー・ローランサン
Marie Laurencin

生没年

1883-1956

制作年

1950年

技法・材質

油彩・キャンヴァス

寸法

35×27

解説

パリで生まれたローランサンは、磁器の絵付を学んでいたが、1904年から、画塾アカデミー・アンベールで専門的な写実技法を学ぶ。同塾のジョルジュ・ブラックの紹介でピカソと知り合い、様々な国籍の画家や詩人が集まった「バトー・ラヴォワール(洗濯船)」に出入りするようになる。そこで出会ったギョーム・アポリネールとは5年ほど恋愛関係にあった。キュビスム的な絵画も描いていたが、やがて、淡い色調と形態を簡素化した詩情性に富んだ女性像を確立していく。第一次大戦後のパリの文化の爛熟期には、ピンク、ブルー、グレーといった色彩を使用して、華やかで甘美な女性像を多く描いた。
<読書>は、画家としての円熟期を迎え、黄色やオレンジなどの色彩が画面に加わり、大胆な色彩の背景で女性像を描いていた頃の作品。本を手にして読書する女性は、西洋絵画では受胎告知の場面のマリアとして象徴的に描かれるが、パリの街の近代化とともに人生を歩んできたローランサンの自立した女性としての知性も重ねられた作品。
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裸婦

藤島武二
Takeji Fujishima

作品名

裸婦

作家名

藤島武二
Takeji Fujishima

生没年

1867‐1943

制作年

不詳

技法・材質

油彩・キャンヴァス

寸法

64.0×42.5

解説

鹿児島県に生まれた藤島は、初め日本画を学び、1884(明治17)年に上京し、川端玉章に師事。1890(明治23)年には、曽山幸彦について洋画に転じ、翌年より山本芳翠の生巧館に入り、明治美術会に出品。同郷の黒田清輝の推挙により、1896(明治29)年、東京美術学校西洋画科設置とともに助教授に就任し、白馬会の創立にも参加。1905(明治38)年、文部省から絵画研究のため4年間のフランス、イタリア留学を命じられ、帰国後、東京美術学校教授に就任。
 <裸婦>は、明治初期以来の洋画教育であったコンテ擦筆による模写、石膏写生から、人体モデルの素描を経て油彩画法に至る研究を重ねていた藤島の遍歴が窺える興味深い作品。また、裸婦の身体表現に明暗を賦与するなど、当時の日本人女性の骨格や髷を想起させてくれる。
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黒き髪の女

安井 曽太郎
Sotaro Yasui

作品名

黒き髪の女

作家名

安井 曽太郎
Sotaro Yasui

生没年

1888‐1955

制作年

1924年

技法・材質

油彩・キャンヴァス

寸法

89.0×116.4

解説

京都市内の木綿問屋の五男として生まれた安井は、1904(明治37)年、聖護院洋画研究所に入り、浅井忠に師事。次いで関西美術院に進む。1907(明治40)〜1914(大正3)年までフランスに留学し、ミレーやピサロの作風を研究し、特にセザンヌに傾倒した。
 1915(大正4)年、二科会会員に迎えられ、第2回二科展に滞欧作を出品。1944(昭和19)年、梅原龍三郎とともに東京美術学校西洋画科教授となる。
 フランスから帰国した後の10年ほどは、安井にとって苦しい不振の時期が続いた。本作(第11回二科展出品作)は、裸婦の姿態や色彩の関係を単純化し、全体を情趣的に、緻密にまとめるような試みをおこなっており、フランスのドランの作品を参照しながらも、ようやくスランプからの脱却の契機をつかみかけた時期の1点。
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オワーズ河周辺風景

佐伯 祐三
Yuzo Saeki

作品名

オワーズ河周辺風景

作家名

佐伯 祐三
Yuzo Saeki

生没年

1898⊶1928

制作年

1924年

技法・材質

油彩・キャンヴァス

寸法

53×65

解説

大阪市出身の佐伯は、府立北野中学校に入学し、野球部に所属。17歳頃より油彩を始め、赤松麟作の洋画塾に通う。1917年に上京し、川端画学校で藤島武二に指導を受け、東京美術学校西洋画科に学ぶ。1924年にパリに渡り、初夏にオーヴェール・シュル・オワーズ(パリから西へ30D)のヴラマンクのもとを里見勝蔵とともに訪ね、渡仏後に描いた作品をみせるが、「このアカデミック!」と批判され、衝撃を受ける。モンパルナス駅近くのアトリエに転居してからは、パリの街景を描くようになり、1925年にサロン・ドートンヌに入選。翌年帰国して滞欧作を発表し、再渡仏のための資金を集め1927年再びパリへ。到着後から盛んに制作をおこない、アカデミズムから脱した独自の画風を模索するが、行き詰まりを感じて郊外の田舎町に出向くなど転換を図っていた矢先、風邪をこじらせて精神も病み、パリ郊外の病院で死去。
 <オワーズ河周辺風景>は、ヴラマンクとの刺激的な出会いから、フォーヴィスムに傾斜していったことを髣髴とさせ、激しい筆致とデフォルメで描かれた作品。
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人物

網谷 義郎
Yoshiro Amitani

作品名

人物

作家名

網谷 義郎
Yoshiro Amitani

生没年

1923‐1982

制作年

1963年頃

技法・材質

墨、紙

寸法

19.3×19.0

解説

神戸市生まれの網谷は、兵庫県立第一神戸中学を経て、旧制姫路高等学校に入学。20歳で学徒出陣し、復員後、京都大学法学部に進学。その頃、小磯良平と出会い、頻繁にアトリエを訪ね、多くの啓示を受ける。大学卒業後、大阪の商社に入社するが、27歳の時、画業専一を志し退社。新制作協会に出品を続け、新作家賞、協会賞を受賞し、1960年に同会会員となる。
風景画から出発した網谷だが、1950〜60年代には、デフォルメされた独特の人物表現に取り組む。油彩や水彩、墨を使って、人間の存在の真の部分を探るように、人物の造形形態を削ぎ落とし、色彩を巧みに制御して制作し、観る者に人間の存在意義を真っ直ぐ問いかけている。同時に、作品には網谷の理知的で真摯な作画姿勢や、過酷な軍隊生活の中でも失わなかったユーモア、そして周囲の人々に対する愛情も窺える。生涯に渡り追究した「人間」の表現とともに、カトリック信者でもあった網谷は、聖書に主題をとった作品を描き、70年代には度々渡仏し、ロマネスク時代の教会建築や風景作品を残している。
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ネレイデス(三人のセイレン)
Néréides

オーギュスト・ロダン
Auguste Rodin

作品名

ネレイデス(三人のセイレン)
Néréides

作家名

オーギュスト・ロダン
Auguste Rodin

生没年

1840‐1917

制作年

1888年以前

技法・材質

ブロンズ

寸法

45×40×30

解説

パリ生まれのロダンは、彫刻家を志してエコール・デ・ボザール(国立美術学校)の受験に3度挑戦するが失敗。1863年、カリエ=ベルーズの助手となり、建築装飾や小彫刻を手掛けながら、自身の制作に取り組む。1875年にイタリアで見たミケランジェロの作品に衝撃を受け、1877年、パリのサロンに<青銅時代>を出品するが、直接人体から型を取ったのではないかと激しく非難される。しかし、この誤解は解け、1880年に作品は国家買い上げとなり、また、国からは装飾美術館の門扉制作を依頼され、十代の頃に愛読したダンテの『神曲』をテーマに<地獄の門>の制作に取り掛かる。完璧主義者であったロダンは、3年の期限で依頼されたこの仕事に生涯を捧げ、亡くなるまで制作を続けた。
ロダンはアトリエでモデルを自由に歩かせ、その自然な動きの観察から着想を得て制作に反映させていた。伝統的な形式から離れ、激しさや猛々しさを伴う劇的で力強い表現や、官能的で静謐さも漂わせる深い情感をも表現するロダンの様式は、さまざまな論争を招きながらも近代彫刻の礎を切り拓いた。
セイレンとは、ギリシア神話に登場する女の顔と鳥の身体をもつ海の精で、美しい歌声で舟人を魅惑し、遭難させたといわれる。
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三つのポーランド
Les Trois Polognes, Relief
‐ Le monument à Adam Mickiewicz

エミール=アントワーヌ・ブールデル
Emile-Antoine Bourdelle

作品名

三つのポーランド
Les Trois Polognes, Relief
‐ Le monument à Adam Mickiewicz

作家名

エミール=アントワーヌ・ブールデル
Emile-Antoine Bourdelle

生没年

1861-1929

制作年

1928年

技法・材質

ブロンズ

寸法

132×84×41

解説

ブールデルは、南仏のモントーバンに生まれ、13歳から木工見習として働き、トゥールーズの美術学校を経て、23歳の時にパリに出てエコール・デ・ボザール(国立美術学校)のファルギエールの教室で学ぶ。学校を中退し、サロンへの出品を続けていた1893年、20歳年上のロダンと出会い、才能を高く評価される。ロダンの助手として15年間を共にする中で、弟子の立場から互いに良き理解者となり、刺激しあう。
ブールデルはロダンを尊敬し、影響を受けながらも、客観的に作品を批評しており、人間の現実の苦悩や愛情を直接的に表現するロダンよりも、素朴ながら、より知性的で深い精神性の表現を、構築的な力強い構成に求めた。やがて、ロダンの影響を脱して自らの彫刻芸術を発展させ、ロダンも弟子が自身を超えたことを認めた。
1908年には、ポーランドの独立に生涯を捧げた詩人アダム・ミスキュヴィッチの記念碑制作をフランスのポーランド委員会から依頼され、20年の歳月をかけて完成させる。<三つのポーランド>は、十字架を形成した台座の柱の浮彫の一つで、記念碑にはポーランドの自由と解放を求めた壮大なドラマが表されている。
また、ブールデルは1888年から1929年の亡くなる年まで、音楽家ベートーベンの肖像の連作に取り組み、難聴でも曲を生み出したベートーベンの内面の葛藤の表現にのめり込んだ。
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Database Factory